SweetSomeone【大切な貴方】
僕は今荻窪から下井草へ向かっている。夏の終わりの夜。それは秋の始りの夜である。
SweetSomeoneという歌がある。僕はこのメロディーが好きである。まずタイトルがいい。SweetSomeone。大切な誰か。それは大切な貴方だ。未来における貴方かもしれない。これまで見守ってきてくれた両親かもしれない。これから慈しむパートナーかもしれない。Someoneは貴方なのだ。
僕はずっとSomethingを求めてきた。「伝えたい何か 伝えられない何か」 それは世界ブルーとしてここ15年僕の中を闊歩している。僕の意志であり僕の気持ちであり僕の生き方である。何か。そして誰か。それは希求である。求めているんだ。求めている。そうだ。
今僕は大きく幸せな気持ちで満たされながら、歩いている。そしてその幸せな気持ちを確かめたくてわざわざ荻窪からの帰路を選んだ。それは「今の僕」が幸せかどうかを実感として受け入れたかったからだ。ウクレレを右手に持ちながら、この蒸し暑い最中であっても、颯爽と歩く様はどうだろう。足取りは軽い。そして僕は未来へ続く道のりを着実に歩いている。迷いはない。
十年前、この道をよく歩いた。ライブの後、重いキーボードを持って歩く夜道を迷える僕がいた。孤独に酔いしれていたかもしれないし、もがく様を演じていたかもしれない。いや、実際に孤独でもがいている僕そのものであった。あれから十年。状況としては全く変わらない僕は、確かに変わった。なんせ、僕は、今、幸せであるのだから。
まず世界ブルーを手に入れた。世界ブルーを目指していた時分から世界ブルーそのものになったのだ。Someone? 「大切なあなた」は今の僕にとっては両親である。でも、その両親もいつかはこの世からいなくなり、いずれは僕もいなくなるのだ。存在がなくなること。それは致し方のないことだ。でも、存在がある限りにおいて。僕は誰かと。共感し合いたいのだ。求める貴方と。大切な貴方と。
SweetSomeoneを歌い終えて喜びを感じたのは、ちゃんと歌えたからでもなく、歌いこなせた達成感から来るものでもない。伝わったから。大切な人達に向けて歌い、その大切な人達に伝わったという手応えを感じたからだ。交信することができた。交じ合うことがきた。
僕は今、細胞という観点からすれば、若さから老いへと着実に向かっている。エントロピー。ただそれをただただ受け入れる訳にはいかない。心は受け入れたとしても、生き物として人間としてその老いを意識しつつ、若さへ向かっている。そのせめぎ合いの様こそが実は、今の僕の細胞がとても凄まじく「素晴らしい」状態なのだ。「君の歌は、素晴らしかったよ。感動した。」彼らの大切な声は僕の体や意志への尊重、敬意だと素直に受け入れたい。そしてそれは僕の細胞が素晴らしく、僕とのセックスが素晴らしく、僕の世界ブルーが素晴らしいと捉えたい。そう。今の僕は二十代そこらの若者(それは十年前の僕を意味する)とは比べならない程、貴方と「素晴らしい」交信をすることができている。そして貴方は心地好い顔をして言うのだ。「感動した。」と。そうして僕らはまた枕元で語り合う。
マスターベーションの質。セックスの質。振り絞る覚悟。底辺から突き上げる男気。精液の密度。僕はまだ衰えていない。むしろ、より細胞を感じる。そこへ意識を投入しているし、その生き様や気遣いはより尊い次元への人間形成と自己表現へと結び付くだろう。
「歌う」ってことじゃないんだ。「語る」ってことでもない。貴方と交信すること。それが歌になり語りになるんだ。抱き合うことになりピロートークになる。一緒に旅し食す。そして喜び合う。それが人生の豊かさとなり、そんな僕が貴方と交信する。その様なんだ。世界ブルーは。
味覚は? 気遣いは? 足腰は? 感度は着実に上がって来ている。そして世界ブルーへの覚悟も着実に高まっている。きっとその様が幸せなんだ。なりたい僕になれたその様が。
Somethingを手に入れた僕はSomeoneと出会えるだろうか。それは分からない。交信とは一人よがりなものでないからだ。でも、何が共感で何が恍惚であるのか。何が歓喜で何が満足であるのか、生き物として分かり合える貴方と出会えると信じている。伝わるということ。伝え合うということがいかに気持ちいいのか。いかに日々の暮らしを豊かにするのか。いかに体内も脳内も充足感で満たされるのか。生き物である限り、培える尊いもの。これからも僕は世界ブルーを伝えてゆきたい。2012年9月8日 22:46
バールに立ち寄る感覚で【第八十三話】おかげさん2、アルカフェ(荻窪) 2013.8.25掲載
前の晩の気持ちの良いピアノ弾き語りの気分に浸りながら、夏の一日を浮足立つ。
荻窪ワイン食堂、おかげさん2。スパークリングを頼む。「お酒好きですよね。」 はい、好き。お酒からは時間軸と空間軸を感じることができて、感覚軸までもある。それは食べ物もそうで。根源的なものはすべてそう。
アルカフェへ。オープンマイクで飛び入り。これまた前の晩同様、詩の朗読、漫談?、ギター弾き語り、、、二日連続のオープンマイクで、自分であればこういう流れでこういう雰囲気で、とか。ここにも本来的に「集う」という感覚を持ち合わせると素敵だよな、とか。
ウクレレ弾き語ってみる。大好きな歌を一曲。思ったよりも気持ちよく。これまた録音機がうまく作動せず。むむ。こういう時に一人で活動するといのは、どこかで欠落してしまうというか、どうしても不器用になってしまうな、と思う。声の状態、歌への入り込み、演奏の完成度といった音楽的なところから、服装や髪形、チラシにCDの物販に歌の合間のMC、演奏後の会話、お店との関係、飲食、成果物の発表、そのための録音、動画撮影、写真撮影、のための照明やステージレイアウト、ステージ構成、、、と限がないのだ。いろいろ器用にやると小さな世界になるし、飛びぬけた時には感動とは裏腹にどこかで欠落してしまったり。
まだまだだなと思うんだけど、これが「道」であると考えると、成長できるのだから贅沢なものだな、とも思うのです。
世界プルーン ((ひと呼吸ふた呼吸))ヨガ・レッスンと僕 その6 2014.2.1掲載分より抜粋
去年8月の荻窪アルカフェでの飛び入りライブの模様です。友人とバルのようなところへ行って、おしゃべりしつつ摘みつつワインを飲んで。そしてその後アルカフェへ向かった訳です。ここで歌うのは初めてでしたが、店内にはウクレレが沢山壁にかかっていることから、ウクレレ弾き語りというスタイルは何の違和感なくすんなりと入り込むことができました。そして。お気づきかもしれませんが。僕の歌声。僕のライブによく来てくれていた人に特に聴いて欲しいんですが。なんか違くありません?
去年6月下旬からヨガを始めたことはもうお話しています。そしてそこから体のコンディションが整ってきていることももうお話しています。さらに歌声も僕の求めていた声になってきた、ということです。扁桃腺を摘出する前の鼻にかかった(最も反映されているのがアルバム【from here on】)かつ喉にかかった声(最も反映されているのがアルバム【繊細】)と比べると明らかに違うと思うんです。手術後にもライブはしたけど(今後たくさんお届けする【妄想壁画】や【ウィークエンドはAs You Know】など)、ヨガを始めたことでより自分の歌と耳と体っていうんでしょうか。一体感が生じてきているな、と感じています。きっと体のリラクゼーション、そして呼吸、瞑想などが歌によい影響を与えているのは間違いないなと感じるんです。