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  私的随喜    Private Column
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巡り合ったら その人かな

「果てしなく好き」

ありがとう


素敵士  明日会う君へ  素敵士  素敵士  素敵士  俺孤独 君孤独  好きっしょ。  「君は"幸せだにゃ〜"って日々感じて生きているか?!」  マインドミラー


 ♪素敵士♪


素敵士 信じ合いたいな〜って そうすればいいものできるし

20060119 3:00AM
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 ♪明日会う君へ♪


素敵士 「君とは沢山語りたいし、遊びたいし、だらだら途方もないことで時間を費やしたりもしたい。旨いもん食べながら近況おしゃべりしつつも今の恋愛観や人生観を酔った勢いとともに根本的なとこ、ばしっと切り開いたり。昔語りでもいいし、異文化から伝わってくる新発見とか共通項、親近感だとか、やっぱ愛だよね、愛、だとか、そんな話。

ただ残念なことに、僕は今、絶好調。僕のこの情熱が求めていることっていうのは。そして、君の才能さえも使いたい欲求があるよ。「昔はよかったね。いろいろあったね。」だけで済ませたくはないんだ。っていうか、俺達まだ闘っていこうよ。いけるんだからさ。っていう、そう。呼び掛け。その呼び掛けさえもがおこがましい。俺のこの情熱込みの才能と君の才能をぶつけ合わせたい。それが君と会ってやりたいことだ。もっと具体的な話を進めたい。完成型へ向けて一緒に歩んでゆきたい。そうだろ? それが俺だよ。

一日で何ができるか、って、その一日から未来へ発展させてゆく原石プランを一緒に練りたい。ヴィジョンさえあれば。ヴィジョンさえあれば前へ進めるんだから。

だからさ。そりゃ、無邪気に遊びたいんだよ。ひさしぶりに会うんだから。でも、闘わせてみたいんだな。どう?」

こういう気持ちにさせてくれる人って何人かいる。

20060119 9:28pm
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 ♪素敵士♪


素敵士 その子と会うと生きててよかったと思う

20060122 0:50AM
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 ♪素敵士♪


素敵士 俺のすべてを見て欲しい 俺僕僕俺(オレボクボクオレ)

20050122正午
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 ♪素敵士♪


"私は彼より早く死にたい" そう言い切れる彼女が素敵だ

20060122 3:02pm
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 ♪俺孤独 君孤独♪


安心しきった顔 君の安心しきった顔。その真向かいには多分、僕の安心しきった顔があったのかもしれない。笑顔と笑顔の睨めっこ。笑いっこ? 笑いっこしましょ、あっぷっぷ。うぷぷ。

心の中が充足してゆく。僕の中の孤独感。孤独っていうひとりよがりな奴が相手の孤独って奴と出会って、挨拶。「おう、"君孤独"。元気かい? "俺孤独"? ああ、元気だよ。」 その人との会話から"僕孤独"が、そして"君孤独"が何を見い出すことができるのか。

〜"幸せの中でやりたいことやっていきたいんだよなぁ"〜

思い描く。楽園を。未来像を。理想を。求めてゆく生活を。要求したい愛を。心を。

〜僕は何を求めている? 君は? 君も探しているの?〜

見つけたようだ、僕は。なりたい自分が見える。どういう気分で日々を過ごしたいのか。そこへ向かっていきたい。強く。強く向かっているようだ。ただ、今僕がこうやって文章を書いたり、友人と話したり、スタジオで歌ったりすることが、僕の「なりたい自分」へちゃんと向かっていることになっているのか、それは分からない。近道なのかとか遠回りなのかとかさ。分からない。分からなくてもいいし。ただ実感としていつも胸の内にあることっていうのは、それらがないと僕はやっていけないんだな。"僕孤独"は削られ衝突し熱を帯びたりもする。そうすることで"僕喜び"に変身したり"僕気狂い"になってくねくねしたりするよ。それはそれで面白いかもしれない。ただやっぱり一人で化けたり変型したりしたところで、やっぱりそれは"僕孤独"でしか有り得ないんだ。連鎖したい。繋がりたい。一緒に。君と。"君孤独"と。

〜"なぁ、"君孤独"。いつか沖縄でさ。会いたいよね。"〜

君の笑顔を脳みその中で感じ含めると、嬉しくなって生きてる心地がする。僕はそれを"僕孤独"が彼女の中に"君孤独"を見つけ、出会えたんだ、と。そして、いつか、いや、今もきっと、"僕喜び"と"君喜び"で信頼し合えているんだ、と。そしていつか幻想の中の(という注釈さえもが付いても構わない)沖縄という場所で、描き出した海や山という自然に囲まれて、大声でおしゃべりしながら、音を奏でるんだ。楽しいだろうな。

ありがとう。え? 君は何もやってない、って? そうかな。僕にとっては君の存在自体が"ありがとう"なんだよ。

ありがとう。

20060123 0:24am - 0:51am
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 ♪好きっしょ。♪


素敵士 自分が「楽しい」と感じたら、それを共有しようと「楽しいよね」と相手に伝えずとも、相手も「楽しい」と感じていたりする。そこには利益関係はない。

「まさと。こないだは楽しかったみたいで、またみんなでマージャンしよう、って言ってたよ。」と母が言う。
「楽しかったよね〜。またやりたいよね〜。」
「うん、楽しかった。」

そうか。お兄ちゃんもお姉ちゃんも楽しかったんだ。そうか。よかった。四人とも楽しかったんだ。と、改めて再確認できた時に、なんだか絆を感じるっていうかさ。別に再確認しなくても分かってるからこそ。でも、改めて「やっぱ、みんなHappyだったんだ」という実感が僕の中でひしひしと沸き上がるこの心地はどうよ。好きっしょ。

すべてが思い通りにならずとも、ある程度は自分の思い描いた通りになるのではないか、と思っていた頃があった。みんなはどう? "前向きな僕"は壁にぶちあたったり、制限、限度、限界から外へ出ることができなかったりすると"後ろ向きな僕"になることもそりゃあった。限界を知る。じゃあ、これからはこうしよう、みたいな。だって、俺まだ終わらないもん、みたいな。結局の所、どうにかしよう、どうにかやっていける、という気持ちがあったことを認めよう。

今はどうだ? 難しいことは難しいんだよね。できないもんはできないんだ。「でも、やってみよう」 それさえもさ。言えなくなってきてるよ、正直。限界、あるんだよ。独り、これは辛いんだよ。誰からも見向きもされなくなったり。いや、それはそれでいい。でも、寂しいだろ? 創る。創る。創る。創って創って創り続ける。まだまだ。ははん、まだまだ。

「楽しい」と感じることはいいことだ。だって、その「楽しい」をまたやりたくなるもの。感じたくなるもの。僕がいい加減にピアノやクラシックギターで弾き語る。これは極限の「楽しい」だ。自分のリアルな声と生み出すメロディーフレーズ、そして、楽器の音とが絡み合う。そんな奏でが部屋の中を、空の下を、空気を伝ってまた僕の耳の中に。快感だ。こりゃ楽しい。そんな音から僕はいろいろな景色を見ることができる。嬉しい。見たこともない知らない光景を旅することができるんだ。

自身が持っているイメージ。それに共鳴してくれる演奏家とスタジオで音合わせする。自分の想像を超えて、その演奏家自身が持つイメージが加わって、それが実在する「音」として絡み合う一体感ってなんだ? 快感だ。嬉しい。僕はその演奏家に対して「嬉しい」と感じる。嬉しいから歌う。歌う。歌う。歌う。歌うから歌うし歌って歌うんだ。そう感じている最中にも、やっぱり僕のピアノの音やその人の奏でる音とがスタジオ内を充足してゆく。嬉しい。

とある沖縄料理屋。一年数カ月ぶりに会う友人が目の前にいる。そこでは僕は"別にどう思われたっていい発言"をする。それはもうその子のことを完全に信頼しきっているからだろう。お互い言いたい放題。(e.x.「外見はもう言うことなし! 完璧だよ」なんて言っていいんかい?/「1曲目と10曲目と11曲目。特に11曲目は伝わるものがあった。でも、どこか素人っぽい。」/「」「」「」「」数々の「」だ。こうやって思い返すと大切な言葉までもが思い出されて筆者はジーンとクルのです。。。) でも、だからといって、不愉快に感じることがまったくといっていい程ない、この心地よさってなんだろう。恋愛というよりも同志。仲間。一緒に生きていく仲間。僕の世界ブルー。別に"世界ブルー"を持ち出さずとも、僕という人間を知らないようで知っちゃってくれている心地よさ。そこには誤解が含まれていてもいい。そんな余裕だってある。100%の愛を!っていう"分かってくれ!感"みたいな期待し過ぎる部分はない(そりゃ物足りなさ感はあったりする。べったり愛し合う訳ではないから。我がまま放題に頼める訳ではないからね)。というのもいつも100%以上のUnderstandingを持ってして返してくれるから。そういう人達。まぁ、僕の方は結構そこに甘えてしまっている部分があるかもしれない。それをまた許容してくれる。勿論僕も応えたい。求められれば、「期待しないでね」という前提を掲げておいて、僕にできるものをポーンとその子に提示してみたい。そんな関係。

そんな相手が僕という、人生という有限な時空間において存在してくれている。嬉しいじゃないか。そしてその子と心を前向きに持ってったり、それぞれが持ち合わせている"真実"という底辺まで掘り下げていったり、現実と照らし合わせてみたり、そこから夢や理想像へと引き上げたり。そういう会話の中で旅ができるのって楽しいじゃないか!

家族だとか親戚だとか昔からの友達だとか親友だとかマインドミラーだとかよき理解者だとか。「楽しい」「嬉しい」にそういう境界線はない。家族は家族だよ。親は親だし子は子だ。恋人は恋人で友達は友達だ。関係には違いがあっても感情に境界線はない。僕はその相手と一緒にいることが「楽しい」んであり「嬉しい」んだ。

ありがとう。楽しいって感じるの、好きだ。嬉しいって感じるの、好きだ。

ありがとう。

20060123 1:38am
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 ♪「君は"幸せだにゃ〜"って日々感じて生きているか?!」♪


素敵士 君は"幸せだにゃ〜"って日々感じて生きているか?!
Yes, I am. Yes, I do.
そこに躊躇いはない。その答えに嘘はない。

とある沖縄料理屋。「今死んだらさ。。。」
三十過ぎると。いや、思春期過ぎた頃から。いや、もっと前から人は死について考える。考えてきたじゃない? ただ十代の頃に感じてきた「死」というものへの恐怖は、それはどこか非日常やアクシデントを想定しての「死」だったような気がする。「生」における「喜び」「悦び」「歓び」さえもがまだ漠然としていたし、アイデンティティさえも確立していなかった。漠然とやりたいことをやっていて、漠然と目標を立てていた。それは二十代も現実生活の厳しさを感じつつも実感としては似たようなものだった。

三十路過ぎると。「死」というものはひたひたと何の問題が起こらなくても迫ってきているものだ、と身体の実感としてある。長生きして何の痛みも伴わず死ぬものだ、という神様からの告知、もしくは未来日記ならぬ未来映像を先に見せられたとしても、やはり自分の存在自体がこの世から無くなる、無になる、というのが恐いんだ。

僕は「楽しい!」と感じ「辛い!」と感じ。「嬉しい!」と感じ「悲しい!」と感じつつ生きている。そういった感情がゼロになってしまうのが恐いんだ。暗闇で何一つ匂いも音もない世界。そこには恐怖さえもない、ためらいもない世界。停止すること。死はいずれやってくる。それが恐い。分かっているけど恐いんだ。

どうせ生きているからには。命という尊いものを与えて下さって感謝。今から深夜に風呂に入るけどさ。"あったかいにゃ〜"って吐息。呟いちゃうくらい実感として"にゃ〜"であり"みゃ〜"なんだ。

女の子と抱き合っている時に感じる尊い永遠は、その"あったかいにゃ〜"だったりする。愛し合い抱き合っている時に感じるスローモーションは、一瞬と永遠とが同質の、一瞬だから尊いし永久に続いて欲しいものだから尊いといった大切な気持ち、、、それらは、LoveだHappyだ幸せだ。あったかいんにゃ、幸せなんにゃ、一緒にいたいんにゃ。やさしい顔になるんにゃ、君もやさしい顔なんにゃ、このままずっと一緒にいたいんにゃ。

孤独? 毎日さ。やったるで! 毎日さ。俺ってどうすりゃあーいいんだ?! 毎日さ。毎晩さ。はぁ〜、こんなんじゃダメっちんぐ。でもだからといってどうしようもないんだよな。だれかもう一人隣に同じテンションで前へ進める人がいてくれたら、俺っち頑張っちまうどころか、すいすいす〜いなんだけどな。毎晩んなこと思ってる。

毎日毎晩。葛藤も躊躇いも。駄目加減も無気力感も。勿論"絶好調!"も「俺、最高ぉー!」も。そういう自分といつも隣り合わせどころか十二単状態。死んでしまったらそんな感情があったことさえ微笑ましい。

だから、今、三十一歳という僕は、今を必死に、今をだらだらと、今を満喫して、今会える人と会い、今奏でられる音を奏で、今で今で今なんだよ! そう。今大切。だから、今生きているのです。

20060123 1:40am - 2:05am
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 ♪マインドミラー♪


マインドミラー そういや、とある僕の部屋で、とある沖縄料理屋で。相手から出る言葉が僕が日頃感じている言葉=wordsと同じだと嬉しいと感じるより前に驚く。そしてそれは10年前もそうで「似ているんだな」と感じ、環境は変わっていても境遇が異なっても、お互いより心は磨かれてゆくうちに「似ている」どころかとうとう「同じ」言葉を持つようになってしまっている所に驚きを隠せない。

話題。人は、僕も常に何か考えているから、無数にある。でも、気の合う友との話題ってどう? 特に自分自身が一番触れたい話題をもし相手が切り出してきたら、そりゃ驚く。ど真ん中に当てられた感じ。「同じテンションで」という言葉ひとつとってみても、「おい! それ俺がいつも心の中で使ってる言葉ぁ。」な訳で、しかもその名詞を「同じテンションの人が近くに居てくれたら」っていう条件付けも一緒で、さらに求める像の前向き加減だったり、自分自身の弱さだったり、そこを認める素直さだったり。一緒じゃん、、、って。

そりゃ若い時はよく言われた。「あなたって私と考え方がよく似ている」と。それは多分相手も若かったから、と僕は結論付けている。若い時っていうのは、相手の異質性と同質性に敏感なのよね。「それ同じ」「それ違う」っていう分別というか、「共通の何か」---それは趣味嗜好だったり、感受性だったり、思い描く漠然とした夢だったり---を同時に感じ得たりそうでなかったりだとか。共通、非共通ね。大多数とマイノリティーだったり。普通だったり差別化だったり特別や優越性だったり。先進的だったり例外性だったり。今でいえばセレブリティだったり、実はそれさえもが大衆性だったり。それを求めることがね。

「似ている」 でも、違うんよね、それって。でも、もし双方が10年前に「似ている」と感じ、今なお僕自身が「この子は今おんなじ所にいるなぁ〜。」と感じつつ、その数時間前に「キザよね」なんて言われたものだから、そんな言葉はなんだか口説いているようで使わず終いの僕に対して、「生きてゆく土台が同じ」なんて言われてしまうと、「おいおい、それ今俺が使おうと思ってでも恥ずかしくって言えなかった言葉、ありがとん。ラフテーうま〜。」などと参っちゃいます。感謝なのよね。「"自然に返る(還る)"なんて言わんでくれよ、俺参っちんぐ」だったり。何がどう、ってひとつひとつの言葉は今はもう眠いから思い出せんけど、早くこの項書き終えて風呂入って寝て明日月曜からの仕事に向かいたいからじっくりと思い出すことを思考が停止している訳だけど。

"同じ"であれば、求め合うことはできなくても、補い合うことはできるかもな。もう、僕は遠慮なく求めてしまっているかもしれないけども。人生は有限だからあまり細かい感情は構ってられなくなってきているし。

"同じ"か。。。"同じ"と感じてる子に"同じ"と言われるとむずがゆくなるよね。それは嬉しいからだけど。

そう言えば、数年前に僕はその子にこう言った。「そういえばさ。あの時君はこう言ったんだよ。"あなたは私のマインドミラー"ってさ。」「え? 私そんな事言った?」「言った」(ちょいショックな顔をひた隠す俺)

十年後、違う言葉を使っているかもしれない僕達は、まぁ、とりあえず、今後もよろしく、ってことで、僕は文を締めるのです。そして僕は目を閉じる。おやすみ。2:34am

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